魔法少女まどか☆マギカは藤子・F・不二雄作品のオマージュか?
【追記】【念のための警告】下記の文章は一部ファンの間でささやかれていた憶測から、
F作品ファンである僕が勝手に考察したものであり、
あくまで推論です ツイッター機能を付けた為、
小規模とは言え、この情報が流布され、「困惑してる」と言った方まで現れました。
ちょっとした憶測がとんでもない都市伝説にならない内に警告だけしておきます。
藤子・F・不二雄原作『未来の想い出』(1992年9月5日初版発行・小学館)と言う作品がある。主人公は
「俺の時代は終わった」と言う人気絶頂を通り越した漫画家。「20年ばかり若返れたらな・・・」と友人にこぼします。
そして、次のように続きます。
「そうだ!それを描いてみたら? 若返って人生のやり直し・・・」
「若返りね。古いね。ファウスト以来、手あかのついた題材じゃないか。」
「題材なんて光の当てようで新しく装えるさ。それよりそんな夢みたいなことを願うきみの切実な気持ち、その
切実さをテーマにすれば・・・きっと読者にも通じると思うがね」
そして、こんな会話をした後、主人公は人生を繰り返します。
まるで、後に0年代と呼ばれるアニメに代表される“時間ループモノ”を予見したかのような会話。
ひぐらしのなく頃に、ハルヒのエンドレスエイト、シュタインズゲート、・・・。90年代後半からブームとなるギャルゲーやエロゲーは
こういった時間ループモノへ大きな影響を与えたのでしょう。
そんな0年代アニメの集大成・・・最終形と言えるのが『魔法少女まどか☆マギカ』なのであります。
この作品は2011年にTVアニメ化。ハートフルファンタジーかと思いきや、第三話でいきなりのダークファンタジーへの
転換。オリジナル作品なのも加わり、僕自身、その先の読めない展開に釘付けとなりました。
本作品は宮崎駿監督の『もののけ姫』や、細田守監督の『時をかける少女』と並び、『文化庁メディア芸術祭アニメーション部門』にて大賞
を獲得し、まさに“アニメ史”に残る名作となったのです。
さて、このまどか☆マギカの登場キャラクターを見ていると、名前に作為的なモノを感じます。
例えば暁美ほむら。監督である新房昭之氏の別名義は帆村壮二。ほむらのネーミングはここから来ていると考えるのは
こじつけでしょうか? そして、ここからが本題。巴マミ。マミと入れ替わる形で登場したキャラクターは佐倉杏子である。ここから彷彿とさせるのが、
藤子・F・不二雄原作『エスパー魔美』の主人公“佐倉魔美”だ。そして、エスパー魔美には実は前進作があり、タイトル
は『アン子 大いに怒る』(初出タイトルは『赤毛のアン子』・『藤子・F・不二雄大全集 少年SF短編(3)』に収録)
である。この物語の主人公はタイトルにあるようにアン子。杏子は「きょうこ」と読みますが、この名前の由来がアン子
であるのはそこまで想像に苦しくないだろう。主要登場人物、鹿目まどか、暁美ほむら、美樹さやか、巴マミ、
佐倉杏子、と並べてみると、マミ・杏子がカタカナと漢字であり、尚のこと差別化されてるのを感じてしまいます。
さらにキュゥべえにもモデルが居るのではと考える。それは藤子・F・不二雄異色短編集(小学館文庫)
第一巻収録の『ヒョンヒョロ』に登場するエイリアンです。
彼の名前は作中で明らかになってないため不明。容姿はウサギに似ていて、『まーちゃん』と呼ばれる幼児からウサギちゃんと
呼ばれている。このエイリアンの一人称は『僕』言動もかわいげがあり、口調も穏やかです。しかし、一度本性を現すと、
冷徹非道。物語ラスト四ページで一気に本性が露わになります。
「誘拐ヲ実行スル!!」
子供を相手に穏やかな口調とかわいらしい容姿で残酷な運命を背負わせる。これはまどかのキュゥべえそのものです。
心なしか、丸みを帯びた口元や足の形もキュゥべえに似ているように見える・・・と、言うのは気のせいでしょうか・・・?
さらに、まどか第11話ではキュゥべえが「例えば君は、家畜に対して引け目を感じたりするのかい」と、人間の原罪に対して
尋ねてきます。エイリアンであるキュゥべえも身勝手なように、地球人も充分身勝手だと言うのです。
ここで彷彿させるのがヒョンヒョロと同じく藤子・F・不二雄異色短編集(小学館文庫)
第一巻収録の『ミノタウロスの皿』です。
この物語ではパイロットである主人公の少年が「イノックス星」と言う星に不時着したところから始まります。
そこでは牛の容姿をした「ズン類」と呼ばれる生物が、人の容姿をした「ウス」と呼ばれる生物を家畜として育てていました。
少年はウスであるミノアと言う少女が祝宴の大皿に乗せられて食べられてしまうと聞き、四方八方に出回り、ミノアを助けようとします。
しかし、少年もいざ地球に帰還したら、ブフテキ(ステーキ)を頬張り、そこで物語が終わります。
「その反応は理不尽だ」
と言うキュゥべえのセリフもこの作品を読むと一層理解が深まるかと思います。
さて、そんなF作品において人間の身勝手さ、エゴイズムがより一層表現されているのが、ヒーローモノだと思います。
F作品におけるヒーロ-モノ。有名な作品では『パーマン』があげられます。この作品は決して従来(?)あるような「格好いい」
「勧善懲悪」といった正義のヒーローではなく、どうも冴えなく成績の悪い小学生須羽ミツ夫ができないなりに頑張る。
彼は、正義感とかそんなモノを感じずに、只旦にお人好しなのだ。
そして彼らは、運送業やって儲けたり、
アイドルから逃げ出してもう一つの自分を作ってみたりと、パーマンである特権を勝手気ままにに扱っています。
コレは、F作品最大の特徴だと言えます。
他にも例えば、『T・Pぼん』では、自分がタイムパトロール隊であるのを生かして、朝寝坊する自分を起こしに行ったり、
『中年スーパーマン左江内氏』では、スーパーマンなのを生かして、通勤にスーパー服を使って通勤ラッシュを避けて出社したりしてます。
そこには格好いいヒーローではなく、本質的にエゴイストな一人のお人好しな人間が居るのです。
そして、それを究極に突き詰めた『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』
(藤子・F・不二雄異色短編集二巻収録)では、
正義の名の下で、自分の身勝手な正義感で他の者を粛清したり、虫の居所の悪さで、悪人とは言え容赦のない身勝手な勧善懲悪を行うのです。
F作品に潜む正義の味方とは、かっこよくて頼れる存在ではなく、どこか抜けててお人好し。
そして隙あらば、楽をしたい、自分を中心に見ていたい。ようは、人間の本質を突いている。
このような思想がF作品の中枢に存在する気がします。
さてさて、ここでまどかに話を移しますと、これが驚くくらいに人の欲につけ込んでるのが分かります。
キュゥべえは
「僕は君たちの願い事を、何でも一つ叶えてあげる」
と言います。
ただ正義に直向きに走る魔法少女モノではないイレギュラーなセリフです。
まどかの本質は人間の本質的欲望に直結しているのがこのセリフから見て取れます。
しかしながら、まどかはみんなを救うべく、自分が神に近い存在となってTV版(劇場版前後編)の物語は終結します。
これは、今までの流れからして矛盾してるように見えますが、
ここで、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 始まりの物語・永遠の物語』のキャッチコピーを見てみると、
かなえたい未来があった。たとえ、自分を騙してでも。
とあります。前後編だけではこの意味が分からなかったのですが、新編になり、ようやくその意味が分かるのです。
まどかは自分自身を犠牲にしてでも全員が救われることを欲したのだと。
そして、新編まどかのキャッチコピーはこう続きます。
たとえ、世界が滅んでも。
ここで、たとえ世界が滅んででも自分自身の願いを叶えることを優先させたほむらのエゴイズムが読み取れる
のです。
ただエゴイズムとは言え、ここに、批判できる要素が含まれていないのは確かです。
人間は本質的に欲望と共にあるのは確かであります。しかしながら、最近は保守的な思想が蔓延していて、
協調性が求められがちで、それに反発する勢力は抑えこまれ、叩かれがちです。
ここで一度原点に立ち返るのも悪くはない気がします。
さて、さらに新編まどかとF作品の関連ですが、僕は新編まどかを見ているときに、『どことなく なんとなく』
(藤子・F・不二雄異色短編集三巻収録)を思い出しました。
いずれも、自分たちの住む世界の日常に違和感を感じた主人公の物語です。
そして真相は・・・。詳しくは本編を確認してみて下さい。
最後に。僕はまどかを見たとき、F作品との共通した世界観を感じました。
一部ファンの間ではささやかれていましたが、なかなか考察したサイト等が無いのに気付き、このページを作りました。
余談ですが、新房昭之監督とシャフトはまどかの一つ前のクールに『それでも町は廻っている』と言う作品を作ってました。
この作品の原作者石黒正数さんは、無類の藤子ファンとして知られていて、
藤子不二雄ファンサークルの会誌『ネオ・ユートピア』の表紙を書き下ろしていたりして、藤子作品に影響を与えられた漫画家の一人です。
藤子作品の影響は様々な作品にひっそりと出ています。
このページをきっかけに、少しでもまどかやF作品に興味をもつ方が居て下されば幸いです。
2014/2/2
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